自分に気がつく、二泊三日の一人旅

雪の予報が出ている1月中旬、福岡でレンタカーを借りる。出張で九州に来たついでにゆっくりしてみようかな、というのが今回の旅。目的地に設定したのは黒川温泉の旅館山河。
車を走らせながら、この3日、なにをしようか考える。
これといった目的はないけれど、せっかくならたくさん温泉に入りたい。お土産はそんなにいらないかな。時間に余裕はあるけれど、来週の打ち合わせの準備もしておきたい。食事はどういう感じだろう。
山へ山へと進んでいく景色を2時間ほど、短いトンネルを超えたところで、黒川温泉のバス停が見えた。

山の谷間に隠れるように、ひっそりと旅館が集まる黒川温泉。
案内所で尋ねると、全部で30軒もの旅館があるらしい。
あちこちで泉質の異なる温泉が湧いていて、「入湯手形」を使えば各旅館の露天風呂を巡ることができるそう。
景色に馴染んだ、古くからある温泉街。
歩きながら目にとまるのは、ピカピカしたお土産屋さんより、時間が積み重なったことを感じられる風景だった。

神社にお参りしたところで、すれ違った人が「ここのシュークリーム、おいしいらしいよ」と話しているのが聞こえてきた。
チェックインまで時間があることを言い訳に、ベンチに座って頬張ったあと、今日の宿、山河へと向かう。
旅館が並ぶ辺りからは少し離れたところにあるようで、看板を頼りに1本道を進んでいく。
緑のなかに「山河」の文字を見つけてほっとした。

「お待ちしてました、まずはお茶をどうぞ」
小さな川に沿うように建つ旅館では、どこを歩いていても水の流れる音が聞こえてくる。
7つの温泉のなかから最初に向かったのは、広々とした露天風呂。

ほどよい温度に、思わず「ふー」っと声がもれる。
時間が早いこともあって貸切状態。誰の目も気にせず、ゆっくりと浸からせてもらう。
夕食までは時間があるので、旅館のなかを探検しようかと思っていたけれど、部屋のこたつに入ったらなんだか力が抜けてしまった。
障子の向こうでは、雪がふわふわと降り始める。
こんなふうにぼーっとするのは、すごく久しぶりな気がする。

気づくと夕食の時間になっていて、少しだけ身なりを整え食事処へ。
この地域で採れた野菜や熊本名物の馬刺し、朴葉に包まれた味彩牛など、ごちそうが次々と運ばれてくる。
どれも目に楽しく盛り付けられていながら、なんだかほっとする味。

「ごゆっくりしていってくださいね」と声をかけてくれた仲居さんに甘えて、今日は熊本の地酒をいただくことにした。
仕切られた向こうの席では誕生日を祝う家族。私と同じように一人旅の方もいる様子。お久しぶりですね、と仲居さんと話す常連さんの声も聞こえてくる。
お腹いっぱいになったあとロビーに立ち寄ると、カウンターで季節のシロップを仕込んでいる若女将に話を聞かせてくれた。

「この辺りの宿は、江戸時代中期に湯治の場として始まりました。大名が立ち寄る宿として、そのほかの時期には農業をしながら。半農半宿の宿として営まれてきたんです。黒川の至るところで、その雰囲気を感じていただけると思いますよ。」
「私も古くからの知恵を活かした暮らしに憧れていて。勉強しながらですが、山河に来てくださった方にも、この土地の暮らしを少しでも感じていただけたらと思っているんです。」

翌朝、目が覚めて障子を開けると、今日はいい天気になりそう。
炊きたてのごはんとお味噌汁、熊本名物のからし蓮根をいただいたあと、予約してあった桶湯につかりながら、1日どう過ごそうか考える。

ゆっくりするのもいいけれど、昨晩若女将が教えてくれた、かまど炊きの体験に行ってみようかな。
敷いたままにしてもらったお布団でゴロゴロできる幸せを感じたあと、身支度をして出発。
里山の風景のなかを車で10分ほど走ると、ごんべい村の目印になる茅葺屋根が見えた。
「薪を集めるところからやってもいいんだけど、雪で枝が湿っとるから。水分が多いとなかなか燃えないけん。今日はこっちの薪を割って、焚べてみて」
かまど炊きについて教えてくれたのは、この場所を開拓したというごんべいさん。

ここはごんべいさんがつくったキャンプ場で、かまど炊きのように、昔ながらの暮らしを体験することができるそう。
ごはんが炊けるまでの間、飼っているポニーの散歩をさせてもらいながら、この山を開拓してきたときの話を聞かせてもらう。

30分ほどして戻ると、待っていたのは炊きたてのご飯。
一緒にいただくふわふわの卵焼きや煮物、梅干しを用意してくれたのは奥さんのノリコさん。
味噌づくりの名人で、山河の料理人に味噌づくりを教えたこともあるんだそう。

料理好きな近所の友だちと一緒に、ピクルスやトマトソース、佃煮などをつくって、近所の直売所に卸したりもしているらしい。
「最初は麹をつくって味噌をつくるところから始めて。仲間と、昔はこんなんしよったな、あんなんもしよったなって言いながら、だんだんつくるものを増やしていってですね。おもしろいですよ。」
「おもしろいのもあるけど、自分の身体にいい菌を入れたいなという気持ちがあってね。しないでいるよりも、つくろうと思ったら自分でできるんだったらしようって。」
料理のコツをあれこれ教えてもらいつつ、聞いているだけでなんだか励まされるようなノリコさんの話にすっかり長居してしまった。

ノリコさんのつくったものが並んでいるという直売所に立ち寄ったあと、アロマキャンドルづくりができると教えてもらった場所へ。
洗練された家具などが並ぶFILでは、この地域で育った杉のエッセンシャルオイルを使い、タボレッタポプリという、火を灯さないアロマキャンドルをつくるワークショップができる。

用意されたドライフラワーを自分の感覚で並べ、今の気分で香りを選ぶ。
意識したわけではないけれど、私が選んだ色は、山河で見た森の木々に近いような気がする。

行ってよかったな、と思う場所のひとつが、夕日を眺めた小萩山稲荷神社。
もともと牛を飼っていた人たちが、迷子になってしまった牛が戻ってくるようにと祈っていた場所で、今はご縁の神様としても知られているそう。
お参りして振り返ると、遠くに阿蘇五岳が浮かんでいる。

沈む夕日に合わせて刻々と表情が変わっていく。
自分しかいないこの場所で、遮るものがない景色をしばらく眺める。
寒さに温泉が恋しくなって山河に戻ると、「おかえりなさい」と仲居さんが出迎えてくれた。
1人旅ではあるけれど、安心して過ごせているのは、仲居さんたちのおかげだろうな。

今晩の夕食も、ゆっくりと2時間、ちゃんと味わいながらいただく。
そのまま部屋に戻るのはなんだかもったいない気がして、酔いをさましにソファーが並ぶ談話室へ。
植物、建物、哲学などに関する書籍が並ぶなか、普段は手に取らないような詩集が気になる。
ふと目に止まった言葉が思いもよらず染みてきて、なんだか最近、思っていたよりも力が入っていたんだとわかる。
今の自分に気づけたことが、なんだかうれしかった。

翌朝目が覚めて驚いたのは、最近クセになっていた食いしばりをしていないこと。
清々しいってこういうときに使うんだな、と思いながら、朝食前に露天風呂へ。
すれ違う仲居さんは慌ただしく朝食の準備をしながらも「おはようございます」と声をかけてくれる。

「またお会いできるの、楽しみにしてますね」と、配膳を担当してくれたベテランの仲居さんと挨拶したあと、支度をして山河をあとにする。
次は緑が鮮やかなときに来てみよう。
帰り道が、来たときよりもなんだか明るく見えたような気がした。